ボウイの華麗なる相棒⚡️ミック・ロンソンForever!
ジギー・スターダスト期のボウイを支え、ロックの歴史に多くの名を残してきた希代のギタリスト。出会った時に「俺のジェフ・ベックが見つかった」とボウイに言わしめたミック・ロンソン。本作ではボウイの右側に立ちメイクをびしっと決めてギンギンのギターを弾き、時にボウイと絡み観客から熱い視線を受けています⚡️
彼が亡くなってから10年以上が経ちました。改めてボウイの華麗なる相棒=ミック・ロンソンの軌跡を振り返ってみましょう。
The rise and fall of Mick Ronson⚡️
世界を変えた瞬間
1972年にBBCの音楽番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演したボウイが「スターマン」でミック・ロンソンと絡むパフォーマンスは英国のポップ・カルチャー史における一大転機となりました。
ヴィクトリア「『トップ・オヴ・ザ・ポップス』出演のインパクトは、ザ・ビートルズが1964年に『エド・サリヴァン・ショー』で見せたパフォーマンスのそれに匹敵し、若者たちは当時、人生が変わった瞬間と位置付けたものです。実際、私が知っている40~50代の英国人男性の多くが、未だにこの瞬間を鮮明に覚えていると言います。」
ジェフリー「当時の『トップ・オヴ・ザ・ポップス』は家族みんなで座って見るような番組だったんですが、僕の両親は敬虔な人たちで、ボウイが現れた瞬間の父の顔は今でも忘れられません。“文明の終わりだ”みたいなことを言って、憤慨していましたよ。ミック・ロンソンと肩を組んで歌っていて、男性同士であんな風に振る舞うのは前代未聞でしたから!」
ボウイ展 V&A キュレーション秘話 https://davidbowieis.jp/column/18935/
Mick Ronson 1967-1973
1967年頃、地元ハルで活動していたザ・ラッツに加入。ロンソンの粗削りだが鋭角的で非凡な演奏が話題になり、バンド演奏もロンソンのギターをフィーチャーする形でR&B調からヘビーメタルなものへと変化し、地元で人気を博す。やがて1969年にはラッツを辞め、ハル私営公園課の庭師になり、ミュージシャン時代に抱えた、機材購入等による多額の借金の返済をしながら生活する日々を送る。
当時、元ザ・ラッツのドラマーであったジョン・ケンブリッジが、音楽プロデューサーのトニー・ヴィスコンティを介してデヴィッド・ボウイのバンドに参加することになり、そのジョン・ケンブリッジからの誘いでロンソンも参加する事になる。 ボウイの『世界を売った男』(1971年)に参加。その後自分のバンドで活動しようとするが、ボウイに引き留められ、『ハンキー・ドリー』(1971年)から『ピンナップス』(1973年)に至るまで、ボウイのレコーディングやライブをサポート。この頃のボウイのバック・バンドは、スパイダーズ・フロム・マースと呼ばれた。また、1972年にはルー・リードの作品『トランスフォーマー』を、ボウイと共同プロデュース。
ー出典:wikipediaー
ハルでくすぶっていたく無いだろ?
✳︎ミック・ロンソン(The spiders from marsのギタリスト)をバンドに誘った際の口説き文句。ハルはロンソンの故郷。 pic.twitter.com/oyeJ0O8eud
— デヴィッド・ボウイ 名言集 (@DavidBowieBot) 2017年4月29日
「トランスフォーマー」は間違いなく俺の作品中で最高のプロデュースの物だね。それは多分ミック・ロンソンのお陰なんだ。デヴィッドよりミックの影響の方が強かった。でも2人一緒のチームと考えると、連中は本当に素晴らしかったね。
ーールー・リード pic.twitter.com/agXB5x0wMz
— デヴィッド・ボウイ 名言集 (@DavidBowieBot) 2017年5月26日
Mick Ronson 1974-1993
ボウイと袂を分かった後、ミックはスパイダーズ・フロム・マースのメンバーを従えて、初のソロ・アルバム『SLAUGHTER ON 10TH AVENUE』(1974年)を制作・発表。続いてモット・ザ・フープルに加入。『Saturday Gigs』をシングルで発表し、ヨーロッパツアーを行うが、ほどなくバンドの中心人物であるイアン・ハンターともどもモット・ザ・フープルを脱退。ミックはイアンのソロ・アルバム『IAN HUNTER』(1975年)にギターとプロデュースで参加し、それと並行して、自分のアルバム『PLAY DON’T WORRY』(1975年)を制作・発表。
1975年秋には、イアン・ハンターからボブ・ディランを紹介され、ディランの伝説のコンサート・ツアー『ローリング・サンダー・レヴュー』のサポート・メンバーに抜擢された。
1979年から1981年までは再びイアン・ハンターと共に活動。その後は、セッション・プレイヤーや音楽プロデューサーとしての活動が中心となるが、1989年には旧友イアン・ハンターと共に、ハンター=ロンソン・バンド名義で『YUI ORTA』発表。
1991年頃、肝臓癌の告知を受けるが、ミックは音楽活動を諦めなかった。モリッシー『ユア・アーセナル』のプロデュース、ワイルドハーツ『アースVSワイルドハーツ』へのゲスト参加に加え、フレディ・マーキュリー追悼コンサートでは旧友デヴィッド・ボウイと共演し、更にボウイの『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』にもゲスト参加する。また、自身の新作も制作していたが、1993年4月29日に他界。翌年、ミックが録りためていた音源は、遺作『ヘヴン・アンド・ハル』として発表された。
ー出典:wikipediaー
『SLAUGHTER ON 10TH AVENUE』ライナーノーツ:吉井和哉(ザ・イエローモンキー)
1992年4月20日に行われたフレディ・マーキュリー追悼コンサートにおいて、クイーンのメンバー3人、デヴィッド・ボウイ、イアン・ハンター、ミック・ロンソン、デフ・レパードのジョー・エリオットとフィル・コリンのコラボレーションとして「すべての若き野郎ども」が演奏されました。同音源はジョー・エリオットのリミックスで、ミック・ロンソンの遺作となったアルバム『ヘヴン・アンド・ハル』(1994年)に収録されました。
イアン・ハンターが歌い、ボウイはサックスで、ミック・ロンソンがギターで参加、熱い物がこみ上げてきます。
シネ・ウインド井上支配人がボウイを聴くきっかけはエレキギターのカタログに載っていたミック・ロンソンとイアン・ハンターの写真だったそうです。
ロンソンのドキュメンタリー映画『Beside Bowie: The Mick Ronson Story』
デヴィッド・ボウイがナレーションを担当しているという本作のトレーラー映像が公開されています。
監督は、B.B.キングのドキュメンタリー『ザ・ライフ・オブ・ライリー』などを手がけたジョン・ブリューワー。本作ではミック・ロンソンが歩んだストーリーを、様々なアーティストのインタビューや、初出を含むアーカイブ映像などで語る予定。公開時期などの詳細は今後発表されます。
http://amass.jp/86922/